浄土真宗における「自利利他」や「悪人正機説」の考え方は自分に合っていると感じました。また「縁」の存在を守るために、良い考え方だと思いました。しかし、一方で自分を大切にするために、自分の努力が足りない部分を全て「縁」と割り切ってしまうのは違うとも感じ、「縁」について少し掘り下げて考えてみることにしました。
1. 「縁」の本当の意味:責任転嫁との違い
仏教における「縁」とは、単に「運命」や「成り行き」を指す言葉ではありません。正しくは**「因(いん)」と「縁(えん)」が結びついて「果(か)」が生じる**という法則を指します。
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因(いん): 自分の意志や努力、直接的な原因。
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縁(えん): 自分以外の環境、タイミング、他人の助けなどの間接的な条件。
「全てを縁のせいにする」というのは、この数式から「因(自分の努力)」を消し去ってしまう状態です。しかし、仏教が説くのは**「因だけでは結果は出ないが、因がなければ何も始まらない」**という厳しさです。因果応報ということでしょうか。
2. 「自分を責めすぎない」ための縁、「自分を律する」ための縁
今の私に必要なのは、二つの「縁」の使い分けかもしれません。
① 結果が出たあとの「縁」
仕事で失敗したり、人間関係がうまくいかなかったりした時、どれほど努力しても動かせない「縁(環境や他人の心)」は存在します。その時は、「これは今の自分にはどうしようもない縁だった」と受け入れることで、必要以上の自己嫌悪から自分を守ることができます。これは「諦め」ではなく、現実を正しく見る「明らめ」です。
② これから行動する時の「縁」
「努力が足りない部分を棚に上げている」と感じる時は、少し視点を変えてみましょう。**「良い縁に出会うためには、自分の『因』を整えておく必要がある」**と考えるのです。
「ご縁があれば……」と待つのではなく、「いつか来る良いご縁を掴めるだけの自分(因)を準備しておこう」と捉えると、前向きな努力が生まれます。
3. 「自分に都合よく考えてしまう自分」こそが「悪人」
「自分に都合よく偏ってしまうか?」と疑問に思っていたのですが、それこそが親鸞聖人が説いた**人間のありのままの姿(凡夫)**なのだと思います。
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自分の努力が報われれば「自分の実力だ」と思い、
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自分の努力が足りなければ「縁(環境)のせいだ」と思う。
このように、常に自分を中心に世界を見てしまう性質を仏教では「我執(がしゅう)」と呼びます。浄土真宗では「そんな浅ましい自分に気づかせていただく」ことを大切にしているようです。
「あぁ、また自分に都合よく縁のせいにしているな」と気づくことが大切です。 その気づきがあれば、少しずつですが、行動を修正していくことがでるのだと思います。
4. 50代、これからの「縁」との付き合い方
離婚という大きな人生の転機において、妻との別れも、子供と離れるのも、一つの「縁」の結果です。
「努力が足りなかった」と自分を責めるフェーズ(因への執着)から、「こうした縁になった以上、ここからどういう種をまくか(新しい因の形成)」というフェーズへ移行するタイミングなんだと思います。
「過去の縁は変えられないが、未来の縁は今の自分の『因』によって彩りが変わる」
中々切り替えることはできませんが、以上のように心を整理して前向きに生活を送れるようにしたいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。


