40代からのカブライフ

40代から乗り始めたスーパーカブに関することについて綴っています。

「幸せを願うのは、自分勝手ですか?」――離婚、罪悪感、仏教の考え方に救われるまで

ここ数日浄土真宗の考え方を自分の問題にあてはめ、色々と心の整理をしてきました。

今迄考えたことを備忘録としてまとめてみました。

1. 映画『親鸞 人生の目的』との出会い

先日、映画『親鸞 人生の目的』を鑑賞してきました。浄土真宗の開祖・親鸞聖人の生涯を描いたこの作品は、今の私にとって、単なる歴史映画以上の意味を持って迫ってきました。

劇中で語られる「阿弥陀仏」という存在、そして「念仏を唱えれば救われる」という教え。一見すると、将来の不安に対する気休めや、架空の救済のように思えるかもしれません。しかし、人生の荒波に揉まれる50代の私には、それが「心のバランス」を保つための、驚くほど現代的で深い智慧として響いたのです。

2. 「私は悪人である」という救い

浄土真宗には**「悪人正機(あくにんしょうき)」**という、逆説的で力強い考え方があります。

私たちは日々、食事のために他の生命を奪い、誰かを傷つけ、自分に都合の良い嘘をついて生きています。親鸞聖人は、そんな「逃れられない人間の業(ごう)」を直視し、自分を「悪人」であると認めました。

現在、私は妻との離婚を予定しています。子供たちにきちんとした説明もできないまま、家庭を壊してしまうことへの耐えがたい申し訳なさ。そんな私を、誰が「善人」と呼べるでしょうか。

しかし、この教えは私にこう語りかけます。

**「自分の不完全さを認め、痛みを抱えているあなたこそが、救いの対象なのだ」**と。

3. 人に迷惑をかけながら「幸せ」を求めていいのか

ここで、一つの大きな葛藤が生まれました。

「家族に迷惑をかけ、子供を悲しませている私が、自分だけ幸せになってもいいのか?」

仏教における「幸せ(安心)」とは、独りよがりの快楽ではありません。それは、ありのままの自分を受け入れ、生かされていることに安らぎを感じることです。

私たちが誰にも迷惑をかけずに生きることは不可能です。大切なのは、かけた迷惑を「なかったこと」にするのではなく、**「その痛みを知る人間として、これからをどう誠実に生きるか」**です。

私が罪悪感に押しつぶされて不幸なままでいることは、長期的には子供たちを支える力を奪うことにもなります。父親が自らの人生を立て直し、前を向いて生きる姿を見せること。それもまた、一つの責任の取り方であり、不完全な親としての「愛」の形ではないかと思うようになりました。具体的には妻と取り決めた養育費だけは、子供が成人するまではきちんと支払っていく覚悟です。

4. 「縁」という言葉の甘さと厳しさ

もう一つ、私が深く考えさせられたのが**「縁(えん)」**という考え方です。

仏教では、全ての出来事は「因(自分の行い)」と「縁(環境や条件)」が結びついて起こると説きます。

$$因 + 縁 = 果(結果)$$

正直に告白すれば、これまでの人生、仕事や人間関係で努力が足りなかった部分を「これはご縁がなかったから」と、自分を正当化するためにこの言葉を使っていた側面がありました。

しかし、本当の「縁」とは、言い訳の道具ではありません。

  • 変えられない過去(縁)を受け入れ、自分を責めすぎないこと。

  • それと同時に、未来の「良い縁」を掴めるように、今の自分(因)を整えておくこと。

自分に都合よく考えてしまう「我執(がしゅう)」という弱さを自覚しながらも、一歩ずつ新しい種をまいていく。それが、50代からの私の歩み方だと確信しました。

5. おわりに:これからの旅路

これから離婚を経て、私の人生は変わります。

子供たちへの申し訳ない気持ちは、これからも消えることはありません。

しかし、「不完全な私のままでいい」という大きな慈悲(阿弥陀仏)に身を委ね、養育費という義務を果たすだけでなく、一人の人間として健やかに生きる姿を見せていきたいと思います。

今、同じように罪悪感や孤独の中にいる方へ。

私たちは皆、不完全な「悪人」かもしれません。

でも、だからこそ、幸せを求めて歩き出す権利があると思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

仏教の考え方を日常生活に。心の中の整理。

 

 

 

 

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